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罪をきよめる祭壇の火

見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。

イザヤ6:7

1.自分の罪の自覚
 イザヤ書には「救い」の預言、「救い主イエス様」に関する預言がたくさん記されています。けれども、この「救い」を得るため、また「救い主イエス様」に対して目が開かれるためには、まず「自分の罪」に目が開かれないといけない訳です。今日の6章で、イザヤはスゴイ幻を見ました。神様の栄光の輝きを見させられたのです。1節、「私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」


2.私は滅びるばかりだ
 神様を賛美している天使セラフィムでさえ、二つの翼で顔を覆い、もう二つで足を覆っていた。それ程の、絶対的な神の聖さと、輝きと、存在感だったのです。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」一人の小さな人間であるイザヤは、思わず「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と叫びました。神様の聖さというものを感じる時、自分の汚れを思って、「自分は滅びるしかない存在だ」と感じる事があります。


3.祭壇の火
 この時、セラフィムの一人が祭壇の所から、赤々と燃えている炭を持ってきた。「この炎で私は焼き尽くされてしまうのか」と思ったでしょう。ところが、その炎はくちびるに触れた。言い換えれば、その炎は心に触れた。この神様の炎は、イザヤの全存在を焼き滅ぼす代わりに、イザヤの罪の部分だけ焼いたのです!自分の罪を知らされたイザヤは、その罪が除かれ、赦された!前に出エジプト記で、神殿の原型である「幕屋」について学びましたが、そこにある祭壇というのは、羊や牛の犠牲を燃やす所。その犠牲によって罪が赦される。そして、その祭壇が本当に意味する事は、十字架で私たちの罪の身代わりに死んで下さったイエス様の犠牲を意味していました。つまり、このイザヤの唇に触れた祭壇の炎というのは、イエス様の十字架を示している訳です!イエス様の十字架による犠牲によって、本来なら滅びるはずのイザヤの罪が赦されたのです!誰でも、聖い神様の前に自分の罪を心の底から認め、そして救い主イエス・キリストを信じるなら、聖霊の火によって罪が完全に赦され、聖くされるのです!

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