イエスを捨てるか、迎えるか
家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
マルコ12:10
1.強情な民
聖書の中では「イスラエル民族」が特別な役割をもった民族として出てきます。ではイスラエル民族は特別に選ばれるにふさわしい良い性質を持っていたのでしょうか?いいえそうではなく、むしろ最も強情な性質を持っているのがイスラエルだと言えるかも知れません。その姿は全ての人間の性質を代表している様です。
2.ぶどう園のたとえ
「ぶどう園」というのはイスラエルの民を指しています。そして「ぶどう園の主人」は、父なる神様の事を指している訳です。神様は愛情込め、手間暇かけて「ぶどう園」であるイスラエルを育てられました。そして、ぶどう園の管理を「農夫たち」に任せていた。「農夫たち」はイスラエルの指導者たちを指していると思います。神様はこれまでたくさんの「神のしもべ」をイスラエルに遣わされました。この「しもべ」というのが、歴代の預言者たちの事です。神様の御心を伝え、「罪を悔い改めて、神様に立ち借りなさい」と。ところが預言者たちをことごとく拒絶して、神の言葉に耳をふさぎ、預言者たちを迫害してきました。そこでぶどう園の主人は、最後に大事なひとり息子をぶどう園に遣わした。この「ひとり息子」が、イエス様の事を指している訳です。6~8節。なんと農夫たち、つまりイスラエルの指導者たちは、神のひとり息子・イエス様さえも拒絶し、追い出し、憎み、ついには十字架につけて殺してしまうのです。
3.人生のかなめ石
このイスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。人間というのは恐らく全員、この「強情な性質」を持っていると思います。それは全ての人間が持っている罪の性質です!基本的に、神の言葉に聞き従いたくないんですね。聖書の言葉を読んでも、聞いても、無意識に、拒絶している、スルーしている、無視してる。自分の思いや考えを変えたくない。自分の今までのやり方、生き方を変えたくない。 自分が主人でありたい、自分が王でありたい、自分が神でありたい。でも罪が入ってくる前は、本来、人間は神様に従う時に、心に喜びが溢れるように造られたのです。罪により、本来の姿を失ってる。しかし、主と主の言葉を捨てるのではなく、自分の土台、礎石、かなめ石として迎える時、その人に「ぶどう園(神の国)」の祝福、収穫が与えられるのです!