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クリスチャンの食べ物

わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしは聖だからである。

レビ11:44

1.日常生活の教え
 ここまでを振り返りますと、1~7章には「いけにえの動物」を通して、私たちの罪の身代わりに血を流して下さったイエス様を示し、8~10章では「祭司」の姿を通して、神様と私たちの仲保者である、真の祭司イエス様を示していました。今朝は11章に入りますが、これまでは民が幕屋を通して礼拝する「礼拝生活」の教えでしたが、11章からは「日常生活」における教えなのです。私たちもですが、日曜の礼拝の時だけクリスチャンになる訳ではありませんね。普段の日常生活においても、私たちはクリスチャンとして生きるべき者です。月曜~土曜も、自分はこの世のものではなく、神のもの、神に属する者、「聖なるもの」「聖別されたもの」であるという、区別をして生活しなければならないのです!


2.食べてよいもの、ダメなもの
 ここには「聖い動物」と「汚れた動物」が区別されています。新約時代の私たちはこのルールに縛られませんが、その意味はしっかり受け止める必要があります。聖い動物は、まず「ひづめが分かれたもの」。これはクリスチャンのしっかりした「歩み」を暗示します。次に「反芻するもの」。これは御言を何度も味わい、消化吸収する事を暗示します。魚で「ひれと鱗のあるもの」は、世の流れに逆らって、前に進んで行く姿勢を暗示します。鳥や虫では、空を飛ぶ、または高くジャンプするものは聖いけれども、地を這うものや雑食、肉食のものは食べてはならない。これは「心が地上から離れ、天の事・神の国を求めるもの」を暗示します。


3.聖なる者としての自覚をもって生きる
 この「食べる」という事は、私たちが「心に入れるもの」に通じるでしょう。もし私たちが、この世にあるものを何の区別もしないで、そのまま受け入れてしまっているとしたら、それこそ「雑食クリスチャン」です。ブタやカラスやゴキブリと同じです。私たちはこの世のもの、何でもかんでも受け入れてはならない。「これは自分を汚すものだろうか、神様に喜ばれないものだろうか、それとも良いものだろうか。」と区別しなければなりません!私たちはこの世に属する者ではなく、「天に国籍を持つ者」。神によって救われた神のもの、神の子ども、光の子ども、聖なる者です!44、45節。

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