主イエスの名によって歩きなさい
金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。
使徒3:6
ある日、イエス様の弟子のペテロとヨハネは、午後3時のお祈りをするために、宮(エルサレムの神殿)に上ろうとしていました。そこに一人の男の人が抱えられてきました。彼は生まれつき足が不自由で、自分の力では歩く事ができませんでした。神殿の中で礼拝することも許されていませんでした。(レビ記21章18-20)ペテロが彼に対してかけた言葉は…
1.私たちを見なさい
この人は40歳ぐらいの人でした(4章22節)。彼の宮の「美しの門」という所に座っていました。彼は物乞いとなり、神殿に礼拝に来る人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。生きるためにお金をもらう事が彼の目的になり、それ以外のことはあきらめ、絶望していたかもしれません。ペテロとヨハネを見て彼は施しを求めました。二人は彼をじっと見つめました(4)。そしてペテロはこの人に向かって、「私たちを見なさい」と言いました。ペテロがここで言っている「私たち」は、イエス様を信じ、罪赦され、イエス様と共に生きている自分たちの事です。私たちもペテロたちと同じように主イエスによって罪赦され、生かされている者たちです。
2.イエス・キリストの名によって歩きなさい
「何かもらえると期待し」二人に「目を注いだ」(5)彼に対してペテロは語ります。(6)すると彼はいやされ、踊り上がって立ち、歩きだしたのです(7-8)。そして、ペテロやヨハネと共に宮で神様を礼拝する者とされました。「私にあるもの」は、イエス・キリストを信じる信仰、主イエスによっていただいた救いの恵み、聖霊によって私たちの内に生きておられるイエス様ご自身のことだと受け止めることができます。ここでの「名」は、イエス様が一緒にいて下さること、イエス様の権威、力、命そのものを表しています。私たちも、イエス様の御名によって救われ、変えられた者たちです。主イエスの御名、それは私たちに生きる力を与えてくれます。さらに主イエスからの希望と愛を心に与えてくれます。イエス様と共に歩き続けてまいりましょう。