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何をいつも考えているのか

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

マルコ10:45

1.弟子の願い
 題に「何をいつも考えているのか」と付けました。道行く人も看板を見て考えたかも知れません。皆さんの頭の中、心の中をいつも占めている思いは何でしょうか?弟子のユダはいつもお金の事ばかり考えていたのでしょう。他の弟子はどうでしょう。それは、どうやら地位が欲しかったようです。「何をしてほしいのですか」とイエス様に聞かれ、あなたが王様になる時、右大臣、左大臣にして欲しいと。弟子たちの心にいつもあったのは、その事でした。けれどもイエス様は「そうであってはならない」と言われました。42~44節。


2.主の願い
 では、イエス様の心にいつもあった事は何なのでしょう?イエス様は一番偉い神の子なのですから、人に仕えてもらっていい立場です。ところがイエス様の心にいつもあったのは、人に仕えてもらう事ではなく、私たち人間に、いかに仕えるか、いかに与えるか、私たち人間を愛したい、与えたい・・・イエス様はいつでも「与えたい」と思っておられるんですね!だから「求めなさい」と。人間というのは、してもらう事ばかり考えている。でも、受けるより与える方、献げる方が幸いです。奉仕してもらうより、する方が幸い。祈ってもらうのも幸いだけども、祈ってあげる方がもっと幸い。受けるばかりでなく、与えられる人間になったら幸いですね。


3.自分の命さえ
 イエス様は、人間に何を与えよう、何が一番必要だろう、それは罪から救われる事、滅びから救われる事、「そうだ、そのためなら、わたしは愛する人間のために、自分の命をもあたえよう・・・」イエス様はそのように思われ、私たちのために命をも与えて下さったのです!“人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。”私たちは、いつも何を考えているでしょうか?いつも自分の事でしょうか?いつも自分の幸せばかり、いつも自分の楽しみばかり、求めているでしょうか?聖霊によって、イエス様の心、思い、願いに、近づけて頂きたいと思います!

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