恵みが語られているうちに
人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。
ルカ4:22
1.故郷で
今日の場面では、イエス様は子どもの頃から住んでいた故郷の町ナザレにやってきました。故郷というのは、昔からよく知ってる人がいっぱいいる訳です。そして昔なじみのその故郷の人々にはぜひ救われて欲しい、と思われたことでしょう。イエス様は皆が礼拝に集まる会堂で、イザヤ書を朗読されました。16~19節。“主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。”(口語訳)この言葉はこの時より700年も前に書かれましたが、救い主の事を預言している言葉です。ですから預言されたイエス様本人が、その箇所を読まれたのです。
2.恵みの言葉を邪魔するもの
人々は驚きました。その言葉とイエス様がピタッと一つになったからです。「まるでこの聖書の言葉は、この人の言葉のようだ。まさか、この人がその救い主本人なのか!」と。そしてその言葉にとても恵みを感じました。ところが、せっかく信じかけたのに、その言葉を受け入れかけたのに、心にそれを邪魔する思いが出てきた。「いや待てよ、この人はあの大工のヨセフの息子じゃないか。俺たちは昔からよく知ってる。なんで『わたしは救い主だ』みたいな事を言うんだ?危うく信じるところだった」と。何が邪魔をするのでしょうか?御言を信じる邪魔、イエス様を受け入れる邪魔を何がするんでしょうか?偏見?今までの自分の考え方を変えたくないのか?あんたなんかに教えられたくない、というプライドか?いずれにしても、何かが邪魔をして、神様からの恵みの言葉を素直に受け取れないなら非常に残念です。
3.語られているうちに
イエス様は「去って行かれた」。貴重な神様の言葉を受け取らないなら、恵みはあなたから取り去られて、それを素直に聞く、別の人に与えられるというのです!“きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはならない。”(ヘブル3:15)
