信仰をよみがえらせる
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった・・・
ルカ24:31
1.約束の御言を忘れていた
今日はルカの福音書の最後を開きます。イエス様が十字架で死んで下さり、日曜の朝、女性たちはお墓に行きました。ところが、なんとイエス様のお体が無かった。よみがえられたのです!でも女性たちは最初は信じていない。なぜでしょうか?御言を忘れていたから。私たちもイエス様が信じられなくなる時があるでしょう。なぜか?御言を忘れているからです。頭では覚えていても、心では忘れている!天使は言いました、“主がお話しになったことを思い出しなさい。”イエス様の言葉、聖書の言葉というものを、現実離れした、私たちの現実の生活と関係ないものとして聞いている時は、いくら御言を聞いていても、それが生きてこないのです。私たちは御言をそのまま信じて生きているでしょうか?
2.共に歩まれ、語られる主
女性たちは弟子たちに報告しましたが、彼らの心にも御言が留まっていませんでした。“たわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。”しかしイエス様はこの鈍い弟子たちの信仰をなんとか呼び覚まそうとされます。その日二人の弟子がエマオという村へ向かいながら、イエス様の一連の事を話していましたが、そこによみがえられたイエス様ご自身が近づいて来られました。“しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。”信仰の目が遮られている時というのはこういうものです。イエス様が私たちの日常生活に共にいて、いつも心に語りかけておられるのに、私たちは気がつかない。まさに弟子たちの信仰は死んでしまっていた。そこでイエス様はどうされたか。聖書を説き明かされた!“それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。”弟子たちの信仰をよみがえらせるには、結局、御言を説き明かすしかないんです!
3.生きた信仰
“「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」”イエス様は今も生きておられ、今も私と共にいつもおられるんだ、という信仰を持つ時に、その人の信仰はまさしく「生きた信仰」となるのです!
