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いのちの食事を共に

だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

Ⅰコリント11:28

1.食事を共にする意味
 今日のテーマは「食事」です。教会の皆で一緒に食べる食事の事です。今はなかなか教会の皆での食事会が出来ませんが、こうして聖餐式はさせて頂いています。人間は食べる事によって生きる。という事は、一緒に食事をするという事は、「命」を共有していると言える訳です。一緒に「命」を分ち合っている。教会で食事をするのも、そういう意味があります。「愛餐」と言いますが、教会の交わりのためにする訳です。福音書を見ると、イエス様は弟子たちや、色んな人たちと一緒に食事をしている場面がよくあります。イエス様は誰かと食事ばっかりしているなあ、と思うくらいです。そこに意味があるのだと思います。


2.聖餐の意味
 ところがコリント教会では、本来の交わりの意味が損なわれていたというのです。そこでパウロが「愛餐」より大事な「聖餐」について語りました。これはイエス様が十字架にかかられる、その直前の夜に定められたものです。つまり「これからわたしは、あなたがたの罪が赦され、救われるために、十字架にかかりに行く。すなわち、あなたがたが生きるために、わたしの命を与えるのだ。このパンとぶどう酒はわたしの体と血を表すものだ。わたしの命によって、あなたがたが共に生かされる事を忘れないためにこれを行いなさい」という事です。聖餐式にはそういう大切な意味があります。ですから聖餐に与れるのは、イエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けたクリスチャンだけです。26節。


3.主によって一つ
 勿論クリスチャンも軽々しく聖餐に与ってはいけない。何かの罪を悔い改めないまま、これに与ってはいけない。あの時、ユダもこれに与りました。けれども、心の中はイエス様を裏切ろうとしていた訳です。ですから、ふさわしくない状態で聖餐に与ったので、さばきを受けた訳です。聖餐は心して受けなければいけない。主のいのちに与る訳ですから。28、29節。“だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。”主の聖餐に一緒に与る事は、イエス様と一つになる事、また兄弟姉妹たちと一つになる事です。よく自分を吟味し、全ての教会が主によって一つとなりますように!

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