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一つの体、多くのパーツ

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。

Ⅰコリント12:13

1.一つの体
 コリントの教会の一つの特長は、一致の無い事でした。そこでパウロは何度も、「あなたがたはキリストにあって一つなのだ」という事を教え諭すのです。今日の箇所では、教会を「イエス様の体」に譬えています。時々、こういうクリスチャンがいます、「私は洗礼を受けてクリスチャンになったけれども、教会には加わりません。私は一人で信仰します」と。でもそれは聖書の言うことから外れている訳です。12節は口語訳だと、「一つのからだとなるように、バプテスマ(洗礼)を受け」とあります。体の一部分が、体から離れて独立して生きているなんて、ありえません。13節、「私たちはみな・・・一つのからだ。」


2.自分も体の一部
 でも確かにクリスチャンになった最初の頃は、自分はキリストの体に属しているという意識は薄いかも知れません。でもだんだん一人一人、何かの形で教会の奉仕や、小さな事でもお手伝いをして下さるようになる訳ですね。それは正に、家族の一員になってきたという事です。お客さんなら家のお手伝いはしません。まさしく自分は教会の一員、キリストの体の一部・肢体である、という意識の表れです。


3.教会は「おでん」
 14節。「多くの部分から」。これがいい。季節外れですが、教会を「おでん」に譬えましょう。おでんに主役はいません。人によって好みはあるでしょうが、好きな一品だけではやはり淋しいですし、それではおでんとは言えません。色々入って初めていい味が出る訳です。教会もそうです。牧師が一人でバタバタしてたって、いい味になりません。よくそう思います。「あの人もこの人も、教会の中でいい味、出してるなあ。その人の存在が、またその小さな奉仕がいい味を出しているなあ。」ここで一つ大事な事があります。それは、一つ一つの具が、しっかり「おつゆ」に浸かる事です!「おつゆ」は例えるなら「聖霊」です!教会の一人一人がよーく聖霊のおつゆに浸かって来ると、聖霊の味が染み込んで良い味になるのです!12~13節。今の時代は、人と人を離れさせよう、分断させようとします。けれども私たちは、イエス様によって、一つとされたものです。どうぞ、聖霊によく浸かって、いよいよ一つの体とされていきましょう!

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