何とかして救うため
弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
Ⅰコリント9:22
1.何とか救うため
今日の所でパウロは「色んな人に対して、その人に合わせた」という事を言っています。「人に合わせる」と言うと、主体性のない八方美人のようですが、そういう事ではなく、要は相手の気持ちを理解しようとする、相手の立場に立ってみる、という事だと思います。つまりその目的は、その人を救うためだというのです。「相手を理解する」事は非情に大事な事ですが、非常に難しい事です。ましてクリスチャンが人に福音を伝えようとするなら、相手を理解する事はとても重要です。
2.見下すか、下りるか
ところが案外、私たちクリスチャンは、クリスチャンでない人と話をする時に、クリスチャン側の立場、常識、考え方で物を言いやすいと思います。ともすれば、高い所から見下ろして、罪を責めて、「おーい、早くここに登って来いよ。いつまでそんな低い所にいるんだ」と言っているかも知れません。当然、相手も心を開かない。「このクリスチャンは、どうせ俺を見下してるんだろう」と感じるでしょう。その人を天国に導こうと思うなら、その人の所に行かなければならない。そして手を携えてイエス様の所に連れて行かなければならない。
3.イエス様のように
パウロは愛のゆえにそのようにしましたが、誰より、イエス様ご自身が、本当に一人一人の気持を理解してくださいます。イエス様は私たちを救おうとされた時、高い高い天に留まっておられたのではなく、高い所から「ここまで昇ってきなさい」と言われたのではなく、私たちの生きるこの地上に、同じ人間になって、しかも貧しい馬小屋で生まれて下さいました。そして偉そうにしておられたのではなく、取税人や遊女、ザアカイやサマリヤの女というような、人から嫌われているような人とも友達になられました。十字架で隣りにいた強盗さえ導かれました。それは、一人一人を愛しておられて、なんとか救いに導きたいと願われたからです!私たちは、イエス様のような愛はありません。でも、やっぱりイエス様にようにしたい、イエス様の弟子になりたいと願いませんか?22、23節。