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生まれかわったニコデモさん

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

ヨハネ3:3

1.新しく生まれるとは
「毛虫はう、蝶となる日を夢見つつ」とハンセン病に侵された玉木愛氏は詠いました。私たちも外観は日々変化しても、イエスの新しい命に輝く日を迎えます。ある夜、イエスの元に来たニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3)と言われました。「新しく生まれる」とはいったいどういう事なのでしょう。もし「良い人になる」とか、「お金を払ってそれを買う」と言うなら、ニコデモは既にその条件を満たしていた事でしょう。けれども、彼がイエスの元に来たのは、神の国へ入れるという確信が無かったからです。そのニコデモにイエスは「新しく生まれる」(新生する)必要をはっきり示されました。


2.新生は聖霊の御業
 「新しく生まれる」という言葉には「上から生まれる」という意味があります。どのような劣悪な状況下の人でも、神の力が働く時、新しい人が誕生します。それは聖霊の風が吹く時、罪を痛む心が起き、真実な悔い改めと信仰に至るからです。けれども、洗礼を受けると急に天使のように輝き出し、全く罪を犯さない清らかな人間になるという訳ではありません。また途端に病が癒されて全ての問題が解決するという事でもありません。しかし洗礼はそれ以上に、光栄ある神の御業が成される特別な聖礼典です。それは洗礼を受けた時、救いの御業が確かにそこで起っているからです。洗礼とは、十字架と復活のキリストに結ばれ、罪が赦されて、永遠の命が約束される事を見える形で表す事に他なりません。丁度、毛虫が蝶に生まれ変わるように、古い命が死に、新しい神の子の命の誕生を見るのです。


3.新生は信仰によって
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(14)荒野で神に呟いた民に、神が下された裁きは蛇の猛毒でした。けれども青銅の蛇を仰ぎ見た人は命が助かりました。彼らはただ青銅の蛇を仰ぎ見るだけでよかったのです。私たちも、私たちの罪の為に十字架に掛かられたイエスの十字架を仰ぎ見るだけで永遠の命に与ることができます。私たちが受けた救いは、ただ信じて仰ぐ事によってだけ、受ける事ができるものなのです。

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