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神を頼みとするために

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。

Ⅱコリント1:9

1.死ぬほどの思い
 皆さんは、死ぬ事を覚悟する程の大変な目に会った事がありますか?パウロという人は、死ぬ程の苦しい思いを何度も経験しました。その事が11章23~28に書いてあります。パウロは忍耐強く、信仰も強い人ですから、大概の事では弱音を吐かないでしょう。そのパウロでも耐えられない程の苦しみでした。1:9。神学校に向後昇太郎という先生がおられました。子どもの時に関東大震災を経験され、家族みんな死んでしまい、自分だけが生き残った。自分も体を叩きつけられ、片目を失ってしまった。そんな大変な中、思わず「神様っ」と叫んだというのです。別に教会に行った事も無かったけれども、思わず心からの叫んだと。“実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。”


2.神を頼みとするため
 もしかしたら人間というのは、本当に「死」を間近に感じたり、あるいは死にたいと思う程、苦しかったりする時、真の神様の事を本能的に思うのかも知れません。人間は、普段はどうしたって自分の力と知恵で何とかしようとする。けれども時に神様は、私たちの人生の上に、自分の力ではどうしようも出来ない課題を置かれる事があります。なぜでしょう?神を頼みとさせるためです。人間は自分が思っている以上に、強情だと思うのです。ですから、本当に苦しくならないと、心の底から「神様、助けてっ」とは言いません。本当に全面的に神様により頼もうという心は、クリスチャンでもなかなか持たないものです。究極的に追い詰められるまで、何かを握っているのです。自分の思い、願い、自分の命、自分の人生・・・。神様はそういうものを手放させ、本当の意味で100%神様により頼ませようとしておられるのかも知れません。そして100%より頼んだ時、不思議なみわざがなされるのでしょう。


3.この神に希望を
 今、お互いが抱えてる問題、神様に頼まなければどうにもならない事が色々あるでしょう。願わくは、100%の信頼をもって、神様により頼みましょう!10節、“これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。

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