私たちは主のもの
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから、 自分のからだをもって 神の栄光を現しなさい。
Ⅰコリント6:20
1.クリスチャンは自由
私たちは、主によって「自由」とされた者です。ヨハネ8:36、“子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。”イエス様によって罪赦され救われた者は、もはや罪に縛られない、死に縛られない、悪魔に縛られない、解放されています!律法からも解放されています。良い行いを積まなければ救われないという事はない。御子イエスが、信じる私たちを自由にして下さった!
2.自由の使い方
けれども、その「自由」の使い方についてパウロは教えています。12節。本当の「自由」とは何か?パウロは「私はどんなことにも支配されはしません」と言っています。「ところがコリントの人たち、あなたがたは相変わらず、罪と欲の奴隷になっているではありませんか」と言うのです。食欲も性欲もコントロールできないとするなら、自由どころか奴隷だと。12節“「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。”本当の自由とは、何でも自分の好き勝手にする、という事ではない。「自由」を良いことのために使える、「自由」を愛のために使える・・・それこそが「本当の自由」だ、クリスチャンの自由だ!と。
3.主の栄光を現すために使う
ギリシャは哲学好きでしたが、二元論という考え方があります。「人間は心と体で出来ている。心は善だが、体は悪だ。だから心は信心深くても、体が悪を犯すのは仕方がない」と割り切る傾向があったのでしょう。けれども実際は「心」の命じるままに「体」を使うのです。心と体はセットです。そして、なんと私たちの体は、キリストの体の一部である!15節。またそこに聖霊が住まわれる、聖霊の宮であると!19節。今まで、もしかしたら、自分の心と体を、粗末に扱っていたかも知れません。ところが、なんとこの自分は、自分の所有物ではない。神様がイエス様の血と命という大変な代価を払って買いとられたもの!とするなら自分をいいかげんに扱う訳にはいかなくなってくる訳です。私たちは聖なる者とされている自分を、神様の栄光をあらわすために、ふさわしく使おうではありませんか!