top of page

私が神様を見失っている間も

30代・女性

 私は、母にくっついて3歳から教会に通っていました。教会学校にも行っていましたが、救いについてはよくわかっていませんでした。わかっていたのは、この世界を造った神様がいて困ったときは祈れば助けてくれるということ、イエス・キリストを信じれば死んだ後に天国へ行けるということくらいでした。中学生になってからは部活や友達との遊びを優先するようになり、教会から離れていきました。体調不良のときや人間関係がうまくいかないときだけ祈って、問題が解決されるとすぐに神様の存在を忘れました。高校生・大学生・社会人へと進むにつれ、教会は弱い人が行くものだと思ってますます寄りつかなくなり、他のことに夢中になりました。好きな音楽や洋服、友達との遊びや仕事のことで頭はいっぱいでした。時々、心にぽっかりと穴が空いたように虚しい気持ちになることがありましたが、すっきりするまで泣いて寝てしまえば元通りになっていたので、そんなものなんだと思っていました。そんな中でも、仏壇に手を合わせたり神社でお賽銭をしたり、占いや迷信を信じたりはしませんでした。人間が造り出した根拠のないものに頼っても無意味だということだけはわかっていました。でも、何のために生きているのか明確な答えはわからない。とくに人生の目標があるわけでもない。そこそこ良い会社に就いて、結婚して子どもを授かって平凡に生きるのが一番の幸せだと思っていました。そして、職場で夫と出会って結婚しました。


 2013年、上の子を妊娠中に、ある人からキリスト教を否定されました。私がクリスチャンホーム出身だと知った上でのことだったので無性に腹が立ちましたが、言い返せるだけの知識がありませんでした。一度教会へ行ってキリスト教の神様が本物かどうか確かめなければならないと思った私は、大きなお腹をかかえて早速近くの教会に歩いて行きました。それが鎌倉深沢教会でした。その日の礼拝メッセージは、私たち人間が崇めるべきなのは、鎌倉大仏でもご先祖様でもなく、天地宇宙を造られた神様だけだという内容でした。このタイミングで私にぴったりのメッセージが語られるなんて、やっぱり聖書の神様は本物だと確信しました。礼拝後は教会の人たちが歓迎してくれて嬉しかったことを覚えています。みんな生き生きしていて、教会は弱い人が行くものだというイメージは消え去りました。たまたま隣に座った夫妻が気さくに話しかけてくれて、帰り際、信号待ちをしていると奥さんのほうが走って追いかけてきて「これあげる。」と言って星野富弘さんの詩集をくれました。“あの人たちの熱い祈りや賛美は一体どこから来るのだろう。あの人たちが崇めている方を私も知りたい。”私は子どもが生まれたら必ずもう一度ここに来ようと心に決めました。同時に、今の自分の中途半端な信仰では、お腹の赤ちゃんは真の神様を知ることができないんじゃないかと焦り始めました。我が子には、クリスチャンにならなくてもせめて私のように細々とでも神様につながり続ける人生を送ってほしいという甘い考えがあったのです。子どものことを考えると、まず私がちゃんと神様と向き合わなくてはならないと思いました。


 教会に行った次の日から、不思議なことに私の頭の中は神様で埋め尽くされました。家事をしていても、育児をしていても、いつも神様のことを考えているのです。神様のことが大好きで、生かされていることが嬉しくて、もっと知りたいと思いました。そして出産後、日曜礼拝に通うようになりました。洗礼を受けたいという思いが芽生えましたが、夫の反対があってすぐにあきらめました。教会に通えるだけで十分でした。でも、直子夫人が「洗礼を受けるための学びだけでもしませんか?」と言ってくれたので、軽い気持ちで学びを始めました。


 学びの最終日である2015年3月25日、私は人生で初めて悔い改めの祈りをしました。プリント用紙に書いてあった通り「神様、今まで神様を無視して生きてきてごめんなさい。」と読み上げました。その途端、涙が止まらなくなりました。泣くつもりなんてなかったのに、体が発熱したように熱くなって、嗚咽でその先が読めなくなりました。30年もの間、私を見捨てずに忍耐し、愛し、守り、待っていてくれた。私が神様を見失っている間も、神様のほうでは1秒たりとも私を見失ったことはなかった。この日、神様は理屈では説明できない方法で私に分からせてくれたのです。心をあたたかなシャワーで洗い流されるような感覚でした。これが私とイエス様との出会いです。洗礼は、忘れた頃に夫に言ってみたら突然OKをもらえて、同年12月に受洗しました。私があきらめていた中での兄弟姉妹の熱い祈りに感謝しています。


 私にとって一番幸せな人生とは、良い会社に就くことでも、結婚して子どもを授かることでもなく、イエス・キリストと出会うことだと今ならはっきり言えます。何をしても満たされなかった日々を振り返るとき、今は本当の平安を得られていることに幸せを感じます。心にぽっかりと空いた穴は、ずっとイエス様を探し続けていました。命を投げ出すほどにイエス様は私を愛してくれていて、私が生きる意味は神様と人を愛するためだと明確にわかった今、もう虚しい気持ちになることはありません。クリスチャンになってからも様々な試練が与えられますが、二度と神様を見失うことなく人生を歩んでいきたいです。


​2018年6月

bottom of page