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3度命拾いして知った神様の愛

60代・男性

 私は大阪府吹田市で生まれました。家族は両親と子供5人、女女女男男で私は4番目でしたが、長女と一番下の弟が小さい頃に病気で亡くなりましたので、私は男一人、長男で末っ子として育ちました。父は明治生まれで、商船学校を出て船乗りをしていましたので、基本的に男優先という考え方があり、家庭内の序列も父は別格で、次に私、そして姉2人で、母はいつも最後でした。家には仏壇がありましたが、同じように神棚もあり、更には姉2人がミッションスクールでしたのでマリア様もあるという、今考えれば特定の宗教感は全く無い家庭だったと思います。こういう家庭環境だったからでしょうか、私はこれまでに特定の「神様」を強く意識した事はありません。


 そして今から43年前、私はある貿易会社に就職しました。4年間の神戸勤務の後、横浜のコンピュータ部門に転勤となります。その当時は各企業で電算化が急速に進み、どの企業でもプログラマーやシステムエンジニアの徹夜作業は日常的に行われており、私のいた会社も例外ではありませんでした。4か月のうちの3分の2、20日間くらいは徹夜での作業となる事もありました。そして日本のみならず、海外の子会社に於いても順次電算化を進めるという経営方針のもと、まずはオランダに家族で4年間赴任する事になりました。現地では電算担当は私一人でしたし、日本との時差もありましたので夜中の作業となる事も多く、帰宅の道で何度となく警察の職務質問を受けるほど遅くまで働いておりました。そして帰国後は、次のターゲットであるシンガポールの子会社のシステム化に着手する事になりますが、この辺りから私はとても幸運な経験を3回する事になります。


 1回目は2005年です。会社帰りの電車の中で脳梗塞を発症しました。ところがたまたま先輩が同乗しており、すぐに病院に搬送してもらう事が出来ました。結局、25%の視野欠損、そして右手小指のマヒ、更に担当医曰くですが、脳の海馬が溶けて無くなったらしく、記憶が脳に保存されづらいという後遺症が残りましたが、何とかリハビリによってほぼ通常の生活ができる迄に回復出来ました。


 2回目は2012年です。卓球の試合中に心室細動を発症しました。ところがこの時も偶然に参加選手の中に元消防士の方がおられ、体育館に備え付けのAEDで迅速に心拍を回復して下さり、一命を取り留める事ができました。将来の再発に備えICDという除細動器を心臓内部に植え込みましたので、安心して生活ができる様になりました。


 3回目は今年2017年4月で、脳梗塞が再発症しました。近所の歯医者を出た直後に突然発症し、家とは異なる方向へ謎の徘徊をした後、偶然元の道に戻ったところで気を失い倒れましたが、そこを偶然通りかかった方と歯医者さんが私を見つけ救急車を呼んで下さいました。意識が戻ったのは病院のベッドの上でした。今度は右脳に発症しましたので、左腕全体に後遺症が残りましたが、またまた命は助けられました。後日、クリスチャンである妻が通っていた、鎌倉深沢教会の土屋先生が病室に訪ねて来て下さいました。感謝です。ただ、この時は意識が戻った際に、何とも表現できない様な感覚があり、流石に俺は運がいいな、また助かったんだという単純な気持にはなりませんでした。今迄の会社人生、私は自分の力だけで切り開いて歩んで来たという自負がありましたが、本当は随所で「神様」に助けられて歩んで来ていたのではないのだろうかと気付かされた瞬間だった様に思います。ですので私の救いのみ言葉は、旧約聖書のイザヤ書第46章の3節と4節です。

「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ胎(たい)を出た時からわたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

 最後に私のこれからの願いと決心です。イエス様を救い主として信じ受け入れます。そして全ての事に対して神に感謝して生きます。


​2018年7月

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