主の反対者か、味方か
わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
マルコ9:40
1.師匠と弟子とのギャップ
色々な分野で師弟の関係があると思います。そして多くの場合、なかなか最初は師匠が教えようとする事が伝わらず、弟子との思いにギャップがあります。イエス様と弟子たちの思いにもだいぶ開きがありました。私たちもそうでしょう。道を歩きながら弟子たちが議論していた事は「自分たちの中で誰が一番偉いだろうか」という事でした。人間はこういう面があります。誰が一番賢いか、優秀か、仕事が出来るか。誰が一番美しいか、と。でもイエス様は「先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と言われました。
2.心の狭さ
続いて、こんな事がありました。「イエス様の名前を勝手に使って、悪霊を追い出している者がいたけれども、自分たちの仲間ではないので止めさせた」と。人間、こういう心の狭さもあるでしょう。仲間でない者は受け入れない。少しでも自分たちと何かが違うと、考え方や性格が違うと、もう受け入れない。こう見ると、人間というのは、自分が一番になりたがるし、他人は受け入れない。なんと自分中心でしょうか。でもそれは私たちの姿かも知れません。
3.主の寛容
それに対してイエス様という方は、本当に寛容なのです。“わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。”この主の寛容さに希望を与えられます。勿論、ベストな事はその人がイエス様を全く受け入れ洗礼を受け、クリスチャンとなる事。イエス様に一生涯ついていく者となる事です。でもそうでなくても、究極的に人間を二つに分けるなら、それはイエス様に反対する者か、味方する者か。そう考えると、クリスチャンじゃなくても、イエス様に味方する人というのは、私たちの回りにたくさんいると思います。私たちの家族や親族、友人でも、クリスチャンである私たちに理解を示し、協力的である人も多いでしょう。41節。「あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」一人のクリスチャンを受け入れるって事は、間接的にイエス様を受け入れているって事につながってくる訳です。どうか、私たちの家族が、また友達が、イエス様側、私たち側に入れられて、天の報いを受けられるように、祈りましょう!