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これがわたしの心だ

イエスは手を伸ばして彼にさわり『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。

ルカ5:13

1.イエスにはできる!という信仰
 イエスがある町におられた時、全身ツァラアトに冒された人がいました(12節)。ツァラアトとは皮膚に関する病で、癒される者はほとんどいませんでした(4:27)。しかし、ただ治りにくいというだけではなく、ユダヤ社会では宗教的に汚れた存在とされ、他者との関わりが許されませんでした(レビ記13:45-46)。まさに彼は二重苦(肉体的・精神的)であったのです。しかし彼はイエスを見つけ「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(12節)と願い出ます。ここに彼の信仰を見ます。イエスが望んでくだされば「自らをきよめることができる」という信仰です。私たちも「あなたはおできになる」という信仰をいただきたいのです。

2.あらゆる傷を癒やされるイエス
 イエスはその信仰に呼応するかの様に「わたしの心だ。きよくなれ」と言います(13節)。イエスは彼を癒やしましたが、ただ肉体的なことだけではありません。これまで彼は誰にも触れられることはありませんでした。ところがイエスは「手を伸ばして彼にさわ」られたのです(13節)。それは彼にとって予想外の行動だったでしょう。イエスは彼の深いところにある魂の傷を癒すために、あえて触れてくださったのです。これこそが「イエスのお心」です。病院に行っても、薬を飲んでも癒されることができない部分を私たちも持っています。しかし、イエスはそのような私たちの深いところにある傷を癒してくださるお方なのです。

3.イエスが代わりに
 その後イエスは「だれにも話してはいけない。ただ…祭司に見せなさい」(14節)と言います。祭司による診断によって、彼を共同体の交わりに回復させるためです。しかし、誰にも話してはいけないというのは不思議です。話した方がイエスの福音はより届けられます(実際に広まった。15節)。ところが、イエスは寂しいところに退かれたとあります(16節)。私たちはこのストーリーに大きな逆転を見るのです。今まで共同体の外にいた彼が回復し、反対にイエスが外に追いやられたこと事に!ここに象徴されているのが、まさに十字架です。イエスは、私たちを助けるために身代わりとなり、十字架という荒野へと進まれたのです。自らを犠牲にしてまでも私たちを救いたいという「イエス様のお心」を深く覚えたいのです。

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