天国に間に合った父
50代・女性
私の父は89歳の時に大動脈弁狭窄症のため人工弁を装着するカテーテル手術を受けました。無事に手術を終え、リハビリ目的で転院したのですが、どういうわけか看取りの高齢者の様な扱いをされ、ベッドから動くことを赦されず紙オムツにされ、肝心のリハビリは無し。周りは寝たきりのお年寄りばかりという環境に、父はどんどん気力も食欲も失っていき、硬く怖い顔つきになっていきました。このままでは父も寝たきりになってしまうと思った私たち家族は、慌ててリハビリをしてくれる老健に転院させました。そこでは利用者のお年寄り、見舞いの方々、スタッフなど、多くの人と顔を合わせることになります。この頃に父は、見舞いに通う母や私たち姉妹の顔をじーっと見ていることがありました。他の人たちと、自分の家族とでは何かが違う…と観察していたのでしょうか。違うところといえば真実の神様を信じていることです。改めて私たち家族を『クリスチャン』として見ていたのかもしれません。
私が小学生の時、父は礼拝には出席しませんでしたが、毎週のように私たちを教会まで車で送ってくれました。7年前に私が病気になった時には、「お父さんも教会に通ってほしい」と母を通して伝えてもらったところ、一年半ほとんど休まずに、母と一緒に近くの教会で礼拝を守ってくれました。でも、その時はイエス様を信じるまでには至りませんでした。
父は回復して退院するものと思っていたのに誤嚥性肺炎を起こして再び入院することになりました。その後、何度も誤嚥性肺炎を繰り返し、最後には口からの飲食を一切禁じられ、点滴栄養に頼る身体になってしまいました。父も私たち家族もショックでした。病気を治して元気になるために手術をしたのに、寝たりきりになってしまった自分の状態に「自分はもうダメなのか?この先自分はどうなってしまうのか?」とベッドで過ごす長い時間考えたことでしょう。そして、父に話しかける母の内にある信仰、またその背後におられるイエス様を感じたのだと思います。この頃から父の表情が少しずつ柔らかくなりました。
父のため、手術の成功や術後の回復、また長引く入院生活について教会の皆さんにお祈りして頂いていましたが、この頃には健康になることよりも何よりも、まずは神様を信じることが出来ますように。高齢で近い将来この世を去りますが、自分がこの先何処へ行くのか分からない、不安な思いのままこの世を去ることがありませんように。イエス様を信じて天国の望みをいただいて、病床の中にあっても父の心に平安がありますように。と祈って頂くようになっていました。
何度か牧師に来て頂いたのですが、父はいつも先生の目をしっかり見つめてお話を聞いていました。何度目の訪問の時だったか、先生に祈って頂いた父は、先生が帰る時に自分から手を差し出して力強く握手しました。「イエス様は神様です。信じますか?」との問いかけに頷きをもって応えた父は、間もなく病院で洗礼を受けることが出来ました。感謝です。それから父の顔は穏やかになっていきました。心に平安をいただいたのです。そして3カ月後、天に召されました。
長い入院生活の間、父は辛かったと思います。でも最後まで健康なままでいたら神様を信じることが出来たでしょうか。頑なな父の心が開かれるために必要な時間だったと思います。
『神様のなさることは時にかなって美しい』伝道の書3章11節
心から主を賛美いたします。
2019年10月